Derek Prince 師  「罪悪感・恥・拒絶感を克服する」   at. 英国・マルバーン

                                                                 2017年2月10日


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  ● 「罪悪感・恥・拒絶感を克服する」


  今夜のテーマは「罪悪感・恥・拒絶感を克服する」です。 多分 少なくともここにいる25%の人は、罪悪感・恥・拒絶感のどれかに苦しんでいることでしょう。 でも癒しを受け取ることができるのです今夜はそれについて話します。
  それを受け取れる場所とは、十字架です。 へブル1014節にそう書いてあります。

   「キリストは聖なるものとされる人々を一つのささげ物によって 永遠に全うされたのです。」

  「一つの捧げもの」とは、十字架で死んだイエスのことです。 「永遠に全うされた」とは、永遠に完全となるという意味です。 それが無効になることもないし、不完全になることもない。 イエスという一つの捧げもので人類に必要なものが全て与えられたのです。 多くの人は イエスの死が捧げものだったとは知りません。
  へブル914節には「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになった。」とあります。
  祭司として 永久の御霊によって自ら捧げものとなったのです。

   自分が2度目にリバイバルの礼拝に行ったときそれが何だか知りませんでした。 アッセンブリーズ・オブ・ゴッドが開いたものでしたが、彼らが誰かも知りませんでした。 私が初めて礼拝に行ったとき、聖霊が私の手を勝手に持ち上げたのです。 自分ではなく聖霊でした。 恐ろしい体験でした。
  だからそういうことも起こりうるとは思っていました。 自分にとっては全く新しいことでした。
  メッセージの終わりに、「これを受け取りたい人は手を挙げてください。」と言われ、初回は聖霊が勝手に自分の手を挙げたので今回は自分でやろうと思い、手を挙げました。 そして人々が手を挙げると、礼拝を続けたのです。 私が手をもぞもぞしていたからか、その後 牧師が私に話しかけて来て、
  「イエス・キリストはあなたのために死んだと信じますか?」と聞いてきました。

  私は哲学などを勉強したのですが、「正直言うと 19世紀前のイエスの死が 自分の人生の罪とどう関係あるか よく分からない。」と言いました。 牧師は賢くて私と議論することもなく、私のために祈ってくれて、2日後 陸軍の兵舎で夜中にイエスとの出会いがあり、それ以来 私の人生が劇的に変わったのです。
  58年前のことですので、一時の情熱ではないですね。 その後 新約聖書を読み、原語のギリシャ語で読みました。 「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになった。」という箇所を読んで、そのとき永遠の意味を知ったのです。 時間という枠に制限されないのです。 そして自分の抱いていた疑問の答えを見つけたのです。
  十字架で イエスは全人類の罪を全て背負い、アダムから人類最後に生まれる人のための、時間枠にとらわれないとこしえの捧げものだったのです。
  それによって、自分の哲学的な質問の答えが見つかったのです。 私がいかにこの信仰の歩みを始めたかをお話します。


  イエスに出会ったとき、私は英国軍の兵隊でした。 「救い」は昇進をもたらします。 自分は衛生兵だったので昇進はないはずでしたが、陸軍が間違って下士官のコースに私を送り込み、この建物よりもずっと大きな運動場があり、私の親戚・家族は全員英国の軍人だったので自分もテストに合格してしまったのです。 だから軍は私を昇進しなければならなかったのです。
  私が兵舎に戻ると医者である私の部隊長が、「伍長になったそうだな。お前の料理は上手いか?」と聞いてくるので、陸軍ではあまり語らないほうが良いので、「自分の料理はひどいもんだ。」と言いたかったけど、「他と変わりません。」と答えました。 「お前がこの部隊の料理担当だと知らないのか?」と聞いてくるので、「誰も何も言わないので知りませんでした。」と答えると、「お前を昇進させなければならないし唯一空いている職務は料理担当だ。 だから これからは、お前が部隊の料理担当だ。」と言われました。 その肩書を数年保持しましたが、料理は一度もしませんでした。 自分の部隊の兵たちにとっては、そのほうが幸運だったと思います。
  自分は無給の下級伍長として出兵しましたが、戻ってきたときには伍長でした。 救いがあると昇進があります。
  そして陸軍が 戦場の救急第1部隊である私の部隊を中東に送り、その後3年間を北アフリカの砂漠で過ごしました。 エジプトと その隣の国は何だっけ… 西にあるリビアと 最後にスーダンに行きました。 自分は後部の安全な場所から、エル・アラメインの戦いに参戦していました。

  私は戦場救急第1部隊と一緒に、前進する部隊の後について行きましたが、右足の親指に皮膚病を患ってしまいました。 私が部隊に留まれるようあらゆる手を尽くしましたが、良くならないので病院に収容されました。
  1年間 中東にある軍人病院に入院していました。 誰にもお勧めできない場所です。 私は若いバニヤンが言うところの奈落の底に落ちて、ベッドに座って自分には何も残っていないと思っていました。 聖書を開きながら、自分に信仰があったら神は治せるのにと思うのですが、自分には信仰がないのでまた落ち込むのでした。
  でもローマ人10:17を偶然開くと、

   「信仰は聞くことから始まり聞くことは キリストについてのみことばによるのです。」

とあったのです。
  信仰がないなら、それを得る方法があるのです。 信仰を失ったままでいなくても良く、正しいことをすれば 信仰が来るのです。 正しいこととは、神の御言葉を聞くことなのです。
  これを計画的にやっていこうと思い、青と黄色と赤の3色のペンを持って来て、青ペンで癒しについての全ての句にしるしを付けました。 時間は余るほどあったので聖書を全部読み、読み終わるころには、聖書が真っ青になっていたのです。 だから癒しが聖書にはあるという確信があるのです。
  自分は哲学の専門だったので全てを難しく考える傾向があり、神は癒すお方だけど魂の癒しだけで を癒すことはないと考えていました。
  でも箴言42022節を読んだら、

   
「わが子よ 私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。 それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。 見いだす者には それはいのちとなりその肉体(バサル、flesh、body)を健やかにする」

とあり新改訳は 全身(△))、 哲学者でもFlesh(肉体)を魂に変えることはできないので、神は私の肉体を治す薬をくださる方だと納得したのです。 そこにしばらくいた後、違う病院に移されました。 神が自分を癒してくれると宣言していたので、もう少しで精神科にも送られるところでした。

  そのとき突如と現れのが救世軍の准将でした。 それは女性の准将でした。 救世軍では夫が死んだら妻が同じランクを受け継ぎます。
  彼女は救済に関しても、異言で話すことに関しても、軍隊のように大胆でした。 彼女は今 主と共にいますが、彼女のことをはいつも思い出します。
  彼女はニュージーランド人の救世軍の軍人とアメリカ人の同僚と一緒で、彼女自身はオーストラリア人でした。 彼女たちは小さな4座席の車で50マイル運転してスエズ運河にある私たちの兵舎に来ていました。 彼女は帽子をかぶってリボンをつけて、救世軍として完全武装して、兵舎の中に突進して、看護婦長でもあるシスターに、「この青年を連れ出して、車の中で祈っても良いですか?」と聞き、シスターは承諾しましたが、祈って欲しいかと 当人である私には聞きませんでした。 だから自分は、小さな4座席の車の中で、オーストラリア人の准将と ニュージーランド人の運転手とオクラホマ出身の若いアメリカ人女性が後部座席で私の隣におり、皆で祈り始めました。
  私の隣にいる若い女性が震え始め、異言で祈り始めました。 すると私も震え始めたのです自分で意図したことではありませんでした。 すると車の中にいる人たち全員が震え始め、車が振動し始めたのです。 車のエンジンは切ってありました。神がこれを私に見せようとしてたのです。 私を納得させようとしていたのでしょう。

  それからこの若い女性が異言でメッセージを受け取り、解き明かしがなされ、全ての内容は覚えていませんが一つだけ決して忘れられないことがあります。
  彼女はオクラホマ出身の人でした。 アメリカを知っている人はご存じでしょうが、オクラホマの人は ケンブリッジ大卒のような英語を話しません。 逆立ちしても無理です。 でも彼女が解き明かしを喋ったとき、完璧なシェイクスピアのようなイギリス英語だったのです。 だから正に神からだと思いました。

  話の要点に戻りますが、言われたのは、カルバリーで行われた神の働きが 全ての事柄において、全ての面において 完全であったことを知りなさい、 と言うことでした。
  十字架でのイエスの死について、主が話していたのです。 その働きは完璧で完全であり、全ての必要なものを網羅しているのです。
  でも私が車から降りた時 車に乗ったときと同じくらいまだ具合が悪かった。 でも自分が何をすべきが分かっていました。 カルバリーの働きを知るのです。 だから箴言4章から学んだこともふまえて、自分の意思と責任で退院したいと言いました。
  医者はニコデモのように興味を示し、退院は認めませんでしたが、夜になると福音の質問をしてきました。 カルバリーでの働きを知るために、聖書を自分の薬としたのです。 自分も医療に携わっていましたが、人が薬を飲むときどうしますか? 毎日3度の食事の後に服用しますね。 だから聖書を薬のように、3度の食事の後に読むことにしたのです。 数日後 エジプトからスーダンに送られ、スーダンの天候はずっと悪かった。 でも3度の食事の後に「薬」を服用し続けて、食事の後に 一人になって聖書を読みました。 薬だからです。 その結果 薬が効き、世界で一番悪天候の所にいながら、薬のおかげで 自分は完全に癒されたのです。

  その時の体験に基づいて書いた「神の薬瓶」という小冊子があります。 いくらか知りませんが売ってます。 この本についてですが、1年程前にエルサレムにいたときフィリピン人の若い女性が来て、私に話したいことがあると言い、次のような話をしてくれました。
  彼女の母親が癌と診断され、マニラ市で一番良い病院から 余命3か月と言われました。 彼女たちはニューヨークに飛びそこでも診察してもらい、同じく余命3か月と言われました。 でも誰かが彼女にこの小冊子をあげたのです。 娘は本の題名を見て、母親に本を渡して、「失うものは何もないので、これを試してみれば?」と言い、母親も同意したのです。
  9か月間 母親は神の御言葉を薬として3度の食事の後に服用しました。 そしてが医者に戻ると癌は跡形なく消えていたのです。 神の薬は効くのです。
  神は色々な方法で癒しますが、「薬」を使って癒すのなら必ず効用があります。 その他の方法で癒すのなら、あなたが聖霊の働きに敏感になって、そのやり方を見つけてください。 でも失うものは別にありませんし安価な小冊子です。 あなたが癒されなくても、あなたの知っている人が癒されるかもしれませんよ。 その女性の母親の癌が治ったようにです。
  その話からへブル1014節に行きます。

   「キリストは聖なるものとされる人々を…私たちのことです…一つのささげ物によって 永遠に全うされたのです。」

  アダムから 人類最後に生まれる人が必要とする全てのことが、霊的・物理的・精神的・感情面など 全ての必要なものはイエスが十字架で生け贄になったことで満たされたのだと。 カルバリーでの完全なる働きを知るのです。 全ての事柄において、全ての面において完全なのです。 人類が必要とする全てのものが、イエスの生け贄によって満たされたのです。




  それでは3つの感情的なニーズについてお話します。
  罪悪感・恥・拒絶です。
  イエスの生け贄によって、神は私たちを 全てのものから解放してくださり、これら3つのことも含みます。 でも自分の経験からいくと新生したクリスチャンでも、多くの人は完全に自由になっていないで、罪悪感・恥・拒絶などに囚われています。 だから それら3つのことからの解放について話します。
  私の推定からいくとここにいる1/4の人は 何かしらの解放を必要としています。 それら3つのうちのどれかからです。


  罪悪感から始めましょう。
  諺によると、「自意識が人を臆病にする。」と言いますね。 罪悪感があると 完全に自由な、勝利したクリスチャンになることはできません。 私たちが罪悪感を持ち続けることを神は望んでいません。 イザヤ536節は、出来事が起こる700年前に、イザヤが 預言的に書いたことです。 十字架でのイエスの生け贄について書いたのです。

   「私たちはみな 羊のようにさまよいおのおの 自分かってな道に向かって行った。」

  これは全人類の問題です。 全ての人が殺人や姦淫の罪を犯したわけではありませんが、皆が必ず犯すは、神のやり方とは違う 自分勝手な道に進むことです。 神はそれを反抗と呼びます。 だから「主は 私たちのすべての咎を、彼…イエスのことです…に負わせた。」と書いてあります。 私たちの全ての反抗を 十字架のイエスに負わせたので、私たちが自由になるのです。
  ヨハネによる福音書1:29で、バプテスマのヨハネがイエスについて、「見よ 世の罪を取り除く神の小羊。」と言ったように、あらゆる時の あらゆる所に生きる全人類の罪が、神の小羊であるイエスにかぶせられたのです。 よって罪は取り除かれたので、私たちが苦しんだり 罪悪感を感じたりする必要はないのです。
  それをどう自分に活用するかと言うと簡単です。 複雑なことではありません。 自分の意見ですが、自分が簡単に説明できないということはそれを私が理解していない ということです。 だから説明が出来るようになるまで、私も努力します。

  私の最初の妻のことを思い出しますが、彼女は真剣に祈る人でした。 彼女が頭を垂れて手を合わせると、「自分が何か悪いことをしたかな?」と思ったものでした。
  神は彼女の祈りを聞き届けたのです。 彼女は私より年上で、宣教師として経験があったので、私に多くを期待したり 私を支配することもできましたが、そのようなことは一切せず、一歩下がって 妻の座につき、私を一家の頭とさせてくれたのです。 長期的には…本当に長期でしたが…良い結果となりました。 私よりも遥かに経験があり 賜物があった妻のもとで、私は埋もれてしまったかもしれないからです。もしかしたらそのような間違いを犯している妻たちがいるかもしれません。 あなたは夫よりも鋭く 手早く 賢いかもしれませんが、夫の座を取らないでください。 混乱が生じるからです。
  それではこれをどのように自分に適用するか。 箴言2813節を見てください。

   「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して それを捨てる者はあわれみを受ける。」

  罪の告白をするのです。 第1ヨハネ1:9に、

   「もし 私たちが自分の罪を言い表すなら神は真実で正しい方ですから、 その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とあります。

  罪を言い表すと神はお赦しになってくださるのです。 でも告白しないと、神はお赦しにならない。 私たちが悔い改めて 告白するなら、それらの罪を神は赦されるのです。 でも告白しないのなら赦しはありません。
  私たちは 罪を表に出したくないので何としてでも隠そうとします。 最初の妻のリディアが生きていたとき彼女はある夢を見ました。
  「時間は罪を被い隠さない。」 と、夢で 神が彼女に語ったのです。
  私もそのことを忘れないようにしています。 50年前の出来事かもしれませんが、悔い改めて 告白して それを捨て去らなかったら、あなたがその罪の責任を負うのです。 神は私の人生で、私が告白していない罪を思い出させてきます。 いつも罪ばかり探しているわけではありませんが、時に まだ悔い改めて告白していない自分の罪を 神が見せてくださるのです。 その時「神様ごめんなさい。 あれは罪だったと認めます。」と言えばなくなりますが、自分が告白するまでその罪は無くなりません。 神の御前の光の中で自分の罪をさらけ出すのは気が引けますが、私たちの罪が赦されるのはその場だけなのです。 告白しなかったら赦しも受け取れません。
  箴言2813節をもう一度読みます。
   「自分のそむきの罪を隠す者は成功しないそれを告白して それを捨てる者はあわれみを受ける。」
  告白だけではなく それを捨て去るのです。 それが悔い改めであり、その行為に背を向けるのです。 あなたが罪を告白して それを捨て去るのなら神の憐れみがあることを保証します。 神の救いは完璧です。

  私があの小さなの車の中にいたとき、そう言われました。 罪を告白することの 美しく 栄光に満ちた素晴らしく 聖なる効果についてを 話したいと思います。
  イザヤ6110節に、
   「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも わたしの神によって喜ぶ。」

  実に興奮に満ちた句ですね。 これは「宗教」ではなく 「救い」です。 少年時代 英国国教会に通っており美しい祈りを聞いて育ちました。 人々の罪の告白も聞きました。 でも「罪だと告白するなら、なぜ教会の後にも同じことをするのだろう?」と思ってました。 彼らは一向に変わらなかったので、罪の告白は役に立たないものだと思ったのです。
  でも後に 罪の告白は役に立つことを発見したのです。
   「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも わたしの神によって喜ぶ。」  喜びの理由は、

   「主がわたしに 救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ…」

  「救いの衣」「正義の外套」2つが挙がってます。 多くのクリスチャンは「救いの衣」を受け取りましたが正義の外套」を着ていることを知りません。 あなたの正義ではありません。 キリストの正義です。
  その正義は 罪を犯したこともないので、罪悪感や恥じることがありません。 神はその外套を私たちにくれただけでなく、それで あなたを包み込んだのです。 だからあなたの人格の中でサタンに告発されるべきものはないのです。 神が主の正義によって、あなたを覆ったからです。
  罪を告白して 罪を捨てて 救いを受け取ると、神が正義の外套で覆ってくれるのです。 その正義の外套を着ると、罪悪感はありません。 自責の念や 疑いや、神の行いを疑問に思うこともありません。 十字架で清算されたのですから。 神は救いの衣と正義の外套で罪悪感を拭ってくれます。
  でも救いの衣を受け取った多くの人は、正義の外套も一緒に付いてくることを知りません。 あなたのではなく 神の正義がイエス・キリストによって与えられたのです。 それを着ると、どこから見ても、悪魔があなたを告発するものが見つからないのです。 なぜならそれはイエス・キリストの正義の外套だからです。
  これが罪悪感に対する、神の治療法です。 その治療法を完全に活用していない人は、このメッセージの終わりに一緒に祈りましょう。



  次に について話します。
  恥は 残酷で醜いもので、性的虐待などが原因にあることが多々あります。 学校でのいじめなども原因となります。
  ある少年の話を聞きましたが、先生がある男子をクラスで立たせて、「彼以外はクラス全員が合格しました」と言ったのです。 彼は本当に恥ずかしかっただろうと思います。 私たちの幼少時代に起こったことが、私たちに恥を植え付けます。 一番最初に起こった 昔のことを処理するのが一番難しいことがあります。
  最初に入ったものは最後に出て行くのです。
  ここに集まった人の中にも、恥から解放されていない人がいます。 この国や西洋文化での 恥の一番の原因は、性的虐待です。 数えきれないくらいの人を助けましたが、知っている女性は 9歳のとき自称クリスチャンの父親によって 性的に虐待され、父をそのような行為に駆り立てたのは、彼女が何か悪い事をしたからかと疑問に思っていました。
  でも彼女が十字架の元にきたとき、その恥から解放されたのです。 イエスは私たちの全ての恥を背負ってくれました。 その聖句を見てみましょう。
  イザヤ506節。 イエスが私たちのために行ったことが、預言的に書かれてある箇所です。
   「神である主は 私の耳を開かれた。私は逆らわず うしろに退きもせず…」  これはイエスのことです。

   「打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ侮辱されても つばきをかけられても 私の顔を隠さなかった。」

  イエスは「私の背中をまかせ」と言ってますね。 主は自分を救うこともできたし、十二軍団よりも多くの御使いを配置することもできた。でも「背中をまかせた」のです。
  イエスの鞭打ちについて描かれた絵は、あまりにもきれいすぎます。本当は酷いものだったのです。 鞭の先には金属か骨がついており、それで体を打つと、肉が剥ぎ取られ皮が剥けて、肉が見えてしまうのです。 イエスは私たちのためにそれにも耐え、
   「侮辱されても つばきをかけられても私の顔を隠さなかった。」

  十字架で主は あなたと私の恥を背負ってくれたのです。 イエスが捕らわれた後に何が起こったかを簡単に読んでみましょう。 マタイ272731節です。 ピラトがイエスを兵士たちに渡して死刑にするように命じたところです。 27

   「それから 総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。 そして イエスの着物を脱がせて 緋色の上着を着せた。」 主を裸にして バカにしたのです。 「それから いばらで冠を編み、頭にかぶらせ 右手に葦を持たせた。そして 彼らはイエスの前にひざまずいて からかって言った。『ユダヤ人の王さま ばんざい』。 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。」

  いばらの冠を被っているので、葦で叩かれる度に トゲが頭に刺さるのです。でも「侮辱されても つばきをかけられても顔を隠さなかった」のです。

   「こんなふうに イエスをからかったあげく、その着物を脱がせてもとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。」

  この場面でイエスは2回裸にされたのです。 その後、 マタイ2735節、

   「こうして イエスを十字架につけてから彼らはくじを引いて イエスの着物を分け、預言者の言った『彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を くじ引きにします。』は成就した。(*日本語訳ではこの部分が抜けているため 翻訳者が付けたした)  そこにすわって イエスの見張りをした。」

  3時間もの間裸で十字架にかかっていたのですよ。十字架のイエスが正確に描かれている絵を見たことがありません。腰布がいつも描かれていますから。 でも実際は腰布もなく 裸だったのです。 そして恥ずかしいことに 全ての通行人の目にさらされたのです。
  そしてへブル書にいきます。 この真実を強調する、 へブル122章、

   「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。 イエスは ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び…」

  主は恥を嫌ったけど 私たちの恥を背負ってくれたのです (endured the cross, despising the shame - KJV)
  恥の反対とは何ですか? 答えれる人はいますか? その反対は「栄光」だと思います。
  へブル210節はイエスのことです。

   「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的でありまた原因でもある方として ふさわしいことであったのです。」

  多くの子たちを「何に」導くって言ってますか? ・・・ 栄光(観客)  恥の反対は? ・・・ 栄光
  主が私たちの恥を背負ったので我々は 主の栄光を分かちあうことができるのです。 ここにいる人たちで、過去に起こったことを恥に思っていて、完全には回復されていなくて今でもつきまとうように悩まされ、気持ちを乱し 神を賛美し礼拝しようとしても気が引けてしまう人は、イエスが私たちの恥の全てを背負い、全裸の状態で3時間十字架にかけられたので、私たちは主の栄光を 受け取ることができことを知ってください。 素晴らしいことです。 主よ感謝します。

  23年前、このことをオランダで教えた後、あるオランダ人の女性の証の手紙を受け取りました。 その手紙は手元にありませんが、内容を言いますと、彼女は若いとき 少年の集団に強姦され、その後も性的ないたずらなどをされました。 結婚しましたが幸せではありませんでした。 なぜなら彼女の心の深い所で、夫を含め男性に対しての 苦々しい思いがあったからです。 性的いたずらを受けた恥から逃れられなかったのです。 でも主が素晴らしい働きをしてくれました。 これは本当です この手紙を送ってくれたオランダ人のミニスターを知っていますし、「あなたが教えることが証明された」と彼は言っていました。
  彼女が寝室にいるとき、十字架にかかったイエスの幻を見たそうです。彼は全裸でした。 そして彼女は2つのことに気づきました。まず 主が恥を背負ってくれたので、彼女は恥じることはない。 そして イエスも男性であったということです。彼女は男性に対して嫌悪感を抱いていましたが、男性であるイエスが、彼女の罪の代償を払ってくれたのです。 美しいことです。
  恥に苦しんでいるのなら、主が十字架で全裸だったことを思い出してください。 イエスが私たちの恥を背負って、やじを飛ばす人や 通りがかる人の前にさらされたのです。
  十字架にはりつけにする最大の目的は、その人を恥にさらすことでした。 イエスは恥を嫌いましたが、耐え忍んだのです。
  その理由を知っていたからです。 あなたや私の恥を 主が背負うことで、私たちが主の栄光を受け取ることができるからです。



  それでは3つ目の課題に移ります。 罪悪感と 恥と、 3つ目は拒絶です。
  拒絶は人間の霊に、一番深い傷を残すものだと思います。 マザー・テレサについて書いたものを彼女の死後に読みましたが、「愛されないことが 最悪の病だ」と彼女は言っていました。
  長年多くの人に関わってきましたが、それに全く同意します。 最悪の病は愛されないことです。
  今日ここにいる人でも、その病で苦しんでいる人がいると思います。クリスチャンで救われていても、愛されるとはどういうことかが分からない。 それを心が吸収することがなかったのでしょう。 原因は幾つかあります。

  自分が住んでいる米国では、約25%の人が 拒絶による傷を抱えていると思います。 低く見積もっていますが、英国でも似たようなものだと思います。 我々の文化にある一番深刻な病だと思います。 家族崩壊が主な原因です。

  数例挙げてみましょう。 最も一般的に起こる傷は、胎児がお腹にいるときに 拒絶されることです。 胎児も、愛を必要とする、繊細で小さな人間なのです。
  米国で解放のための礼拝を定期的に行っていたとき、ある年齢層が拒絶の問題を抱えているのに気が付きました。よく考えたら 彼らは皆1930年代に生まれたのでした。 アメリカ人なら 1929年は決して忘れられない年です。 世界大恐慌の年だからです。 金融システムが崩壊し、ほとんどの人が職を失いました。食べ物が十分にある人は稀でした。 そのような状況で、女性が妊娠して、すでに小さい子供が6人いるのに7人目を身ごもったと知ったとき、特に何もしなくてもその赤ちゃんのことを いらないと思うかもしれません。 するとその赤ちゃんは「拒絶の霊」を背負って生まれてくるのです。
  私の妻は1930年代に人数の多い貧困の家庭で生まれ、彼女も拒絶の霊による問題を抱えていました。 彼女はそれから解放されましたが、拒絶の霊が常に戻ってこようとするので 気をつけていると言いました。 生まれる赤ちゃんが何よりも欲しているのは愛情です。 両親が子供を愛さなかったり、愛していても それを示さなかったりしたら、赤ちゃんは苦しみます。 それは心理学者でなくても分かります。
  愛情を感じるためにはそれが示されないといけません。 子供は愛情を感じること特に父親の愛情を感じることが必要なのです。 女性の方、すみません。母親の愛情も素晴らしいのですが、父親の愛情は特別です。
  前妻リディアは非常に強い女性で、アラブ人やイスラム教徒に囲まれたパレスチナで非常に勇気のいる仕事をしており、お金が無いことも多く 非難されることも多々でしたが仕事をやり続けたのです。 後に 彼女の性格について考えてみると、彼女は4人姉妹の末っ子でしたが、彼女は父親のお気に入り父親がいつも彼女を励ましていたのです。 父親の確証があると子供の人生が全く違います。 でもそれがないと私のように必要なものが満たされていても、家族から 愛されるとはどういうことかを学べないのです。
  私は愛されていましたが、誰もそれを示してくれませんでした。 「上唇を動かさない」と俗に言われる感情や愛情を表現しない人たちだったからです。 全て何事も無いように振舞って冷たいくらいでした。

  個人的なことなので 言いにくいのですが、他の人の役に立つので 言います。 ルース()が主に召されたことは人生で一番辛いことでした。 でも感情を表してはいけないという考えの奴隷にはならないと決めたのです。自分は泣きたかったら泣くし、それが気に喰わない人がいたら それでもいい。私の文化が感情表現を認めないからと言って、神がくれた感情を抑えるのは間違っていると思ったのです。 私の家族は良い家族で、良い人たちでしたが、感情を表現しないと、感情が未発達で歪んだ人格を育てます。
  私は自分を表現する方法をきちんと学ばなかったのです。 表現されないものは、全て抑圧されます。 だから人が好きか 嫌いかに関わらず、泣きたい時には自分は泣くと決めたのです。 そして踊りたい時には踊るのです。 昔は 色んな会衆でも踊っていましたが、でもこの歳になると足が言うことを聞いてくれないので、立って 足でリズムを取るくらいですが、踊れませんね。

  そして拒絶がよく起こる場所に、学校があります。
  私は9歳の時 英国ケント地区のウェストゲート・オン・シーの寄宿舎の学校に送られました。 入学時の私の写真がありますが、3ピースのスーツを着て帽子をかぶっていました。 私の文化ですから。 学校に着いたら 同じような男の子たちがいて、そのうちの一人が「ママが恋しい」と泣き出したのです。 辛い暮らしでした。 イギリス生活は辛いものです。 皆さんに それを言うまでもありませんよね。自分たちの文化の中で捕らわれ人となっているのです。
  私の親族の男性はみんなイギリス陸軍の士官でした。 みんなイートン校とケンブリッジ大学で教育され、感情を表さないことが 自分にも刻み込まれていました。 でも私はそれに反抗して、その文化の奴隷にならないと決めたのです。 踊りたかったら踊って、泣きたかったら泣くのです。
  素晴らしい例がありますよ。 誰か分かりますか? イエスです。
  ラザロが死んだ話を覚えていますか? 死後4日後に来て、墓に行って、
   「イエスは涙を流された」
とありますね(ヨハネ11:35)
  イエスはラザロが蘇るのを知っているので彼のために泣いていたのではありません。 彼はマリヤとマルタの悲しみを分かち合っていたのです。悲しみは人と分かち合うと和らぎます。
  ルースが主の元に帰ったとき、数えきれない人が 私に愛を注いで慰めてくれました。 家族も 本当に良くしてくれました。 3人の娘が交互にエルサレムに来て、私の面倒を見てくれました。 会ったことある人もいますが、アフリカから養子できた 娘のジェシカが最初に来ました。 それからアラブ人の娘が来て、彼女は今夜ここにいます。 そしてユダヤ人の娘のアナが私を彼女の家に連れて行ってくれました。 彼女と夫のディビッドは、私が暮らすために2階の半分を私にくれたのです。

  家族のことを本当に誇りに思います。 1928年に私の前妻のリディアは、瀕死のユダヤ人の女の赤ちゃんを引き取りました。 「福音を伝えるために来たのに」と宣教チームの人は彼女を非難しました。福音を伝えるとき、言葉で伝えるか 行動で示すかの2通りあります。でも行動が伴わないのなら言葉を伝えても無駄です。 瀕死のユダヤ人の女の赤ちゃんは大きくなり、彼女の家族は150人になりました。 自分のことではなく神がいかにすごいかと言うことです。 多くの人は 大規模でインパクトのあるミニストリーを持ちたがります。 でも全ての大きな働きは小さなことから始まります。 私は救われたばかりで 無知で、福音はまず最初にユダヤ人のためにあるとは知りませんでした。 でも私に任された最初の会衆は、ユダヤ人だったのです。 規模も小さく みな子供でしたが、ユダヤ人でした。 聖書には、

   「父なる神の御前で清く汚れのない宗教は… 孤児や やもめたちが困っているときに世話をしこの世から自分をきよく守ることです」

とあります(ヤコブ1:27)  だから孤児ややもめたちの世話をし始めたのです。
  私は霊的でも何でもありませんでしたが、自分が考えてもいない状況に 神が私を投げ込んだのです。 でもそうして本当に良かったと思います。

  結婚が崩壊するとき拒絶が生まれます。 ある女性が夫に一生懸命仕えているところに、牧師でもあるその男性が、ある日 離婚届けを持って現れたのです。 何と言うことでしょう。 やるべき事を全てやって、喜んで仕えて、突然 離婚を突き付けられるのです。 そういう状況で拒絶感を感じない人は、よっぽど主と親密な関係を持った人でしょう。

  そして最後に 拒絶感でもう一つ挙げられるのは、自分を拒絶することです。
  大きな問題です。 どれほどの人が、自分を拒絶しているかを知ると驚くでしょう。 特に女性や少女に多い。 どこかが長すぎたり 短すぎたり、細すぎたり 太すぎたり、目の色が気に喰わないとか、髪が直毛じゃないとか チリチリしているとか、理由は何であれ、自分を拒絶する理由を作り上げるのです。 他人を見て自分があの人みたいだったらと思う。 それは自分を拒絶することです。 それの治療法は、十字架にあります。 ルカ23章…1314節に、イエスがピラトの前にいる場面です。 ピラトはイエスを釈放しようとしますが、ピラトが頑張れば頑張るほどイエスの同胞であるユダヤ人たちは「十字架につけろ」と叫ぶのです。 読みましょう。

   「ピラトは祭司長たちと指導者たちと民衆とを呼び集めこう言った。 『あなたがたは この人を 民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところあなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。 ヘロデとても同じです。 彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。 この人は 死罪に当たることは 何一つしていません。 だから私は 懲らしめたうえで 釈放します。』 さて ピラトは祭りのときにひとりを彼らのために釈放してやらなければならなかった。」

  「しかし彼らは…」 ユダヤ人指導者たちのことです。 「彼らは 声をそろえて叫んだ『この人を除け バラバを釈放しろ』 バラバとは 都に起こった暴動と人殺しのかどで牢に入っていた者である。 ピラトは イエスを釈放しようと思って、彼らに もう一度呼びかけた。 しかし 彼らは叫び続けて、「十字架だ 十字架につけろ」と言った。 しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。 『あの人がどんな悪いことをしたというのか。 あの人には 死に当たる罪は 何も見つかりません。 だから私は 懲らしめたうえで 釈放します。』 ところが 彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。 そしてついにその声が勝った。」

  主はどう感じたでしょうか? イエスの同胞ですよ。 彼を退け 拒絶したのです。 そして盗みを働いて殺人を犯した人を選んだのです。 私たちだったら、完全に拒絶されたと感じますよね。 主もそうだったと思います。 それが最後ではありません。マタイ27章に行きます。45節です。 イエスは十字架につけられました。

   「さて 十二時から 全地が暗くなって、三時まで続いた。 三時ごろ イエスは大声で、『エリ エリ レマ サバクタニ』と叫ばれた。 これは 『わが神 わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。すると それを聞いて そこに立っていた人々のうち、ある人たちは 「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。 また 彼らのひとりがすぐ走って行って 海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて 葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。 ほかの者たちは、『私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう』と言った。 そのとき イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。」

  磔の傷で死んだのではありません。 磔になった人は12時間以上生きることが多いと言いますが、イエスの死因は何でしょう? そうです 拒絶です。 彼の同胞に拒絶されるのもひどいことですが、天の父からも拒絶されたのです。 主の苦しみの叫びに神が答えることはなかった。 なぜならイエスは私たちの罪をまとっていたからです。 神が罪を扱うように、神はイエスを扱い、彼に対して耳を塞ぎ目をそむけたのです。 イエスの心は壊れて、死んでいったのです。 磔の傷ではありません。イエスは拒絶の痛みで死んだのです。 人間の心にとって、最も耐え難い傷です。 次の句に その理由が説明してあります。

   「すると 見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたそして 地が揺れ動き 岩が裂けた。」

  これは聖所と至聖所を隔てる分厚い幕のことです。 高司祭だけが年に一度だけ中に入ります。 でもイエスが死んだとき、その分厚い幕が上から下まで真っ二つに裂けたのです。 イエスの死によって、聖なる神の臨在に 私たちが入る道がつくられたのです。 私たちの拒絶を、イエスは背負ってくださったからです。
  KJVのエペソ1章に、それについて美しい句があります。 エペソ136節です。4節から読みます。

   「すなわち 神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く 傷のない者にしようとされました。 神は みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと愛をもってあらかじめ定めておられました。 それは 神がその愛する方にあって、私たちに与えてくださった恵みの栄光が ほめたたえられるためです。」

  彼のように 私たちが受け入れられるために、私たちの拒絶を背負ってくださったのです。 全ての悪しきものがイエスを覆ったのです。 私たちが全ての良いものを受け取るためです。 十字架においての唯一の生け贄によってそれが可能になったのです。


   「キリストは聖なるものとされる人々を一つのささげ物によって 永遠に全うされたのです。」(へブル10:14)

  もう何もしなくても良いのです。 全てがなされたので、ただ私たちはそれを 自分のものとするだけなのです。 だからイエスの死によって 神がくださったものを、あなたが受け取る機会を提供したいと思います。
  罪悪感に悩まされている人は完全な赦しを受け取ってください。 天の法廷では、あなたが無罪判決が宣告されたのです。
  で悩んでいる人も、癒しを受け取ってください。 全裸のイエスは十字架であなたの恥を背負ってくれたのです。 あなたが主の栄光をあずかるためです。
  拒絶で苦しむ人も癒しを受け取ってください。 イエスは十字架で、天の父から拒絶されたのです。 心が砕けて死んだという、最も過酷で残酷な死だったのです。 主が私たちの拒絶を背負ってくれたのは、私たちが主のように受け入れられるためです。あなたは神の子として ただいるのではなく、歓迎されているのです。
  謝りながら生きたり神に予約を入れる必要はありません。 天の父は、いつもあなたを歓迎しているのです。 イエスを介して来るからです。

  簡単ではありませんが、できるだけお手伝いします。 もし罪悪感・恥・拒絶のどれか、或いは全部に悩まされており、十字架で提供された癒しを受け取りたい人は、一緒に祈りましょう。 十字架に戻るのです。 十字架が、あなたの心に働きかけてくれます。 罪悪感・恥・拒絶のことで一緒に祈りたい人は、立ち上がってください。 舞台に来て、私の横に立ってくれますか?
  信仰で受け取るのです。 自己改善をしたり、良い人間になろうとしなくても良いのです。 私が教えたことを信じるだけです。
  十字架でイエスは、あなたの罪悪感・恥・拒絶を背負ったのです。




  主に感謝してくださいもう恥じなくてもよいのですから。 もう罪悪感や拒絶で苦しまなくてもよいのです。 イエスが全うされたのです。 今夜ここで重荷を下して帰ってください。
  自由になりましょう。 簡単な祈りを私の後に続いて言ってください。 特に何も用意していませんが、聖霊の促しで祈ります。


  神よ感謝します。 あなたは私の問題をご存じです。 私の苦しみもご存じです。 罪悪感・恥・拒絶のどれであっても、あなたの御言葉には はっきりとイエスが十字架でそれらを忍んだことが書かれています。 罪悪感を忍び、恥を忍び、拒絶を忍びました。 だから 私は自由になり罪悪感から解放され、恥から解放され、拒絶からも解放されるのです。 そして拒絶されたと思う代わりに、受け入れられたことを知るのです。
  私の神である父よ。 私は神に属し、最高の家族の一員です。 謝る必要もないし、恥に思うこともありません。 私は2番目でもありません。 神の子はみな一番だからです。 私はその一人なのです。 父よ感謝します。 感謝します。


  立ったままで居てください。 聖霊があなたに働きかけるように 祈ります。

  天の父よ。 あなたの愛と憐れみと誠実さに感謝します。 十字架でイエスが罪悪感・恥・拒絶の苦しみを忍ぶように、あなたは彼を遣わしました。 私たちが解放され、自由になって、これ以上罪悪感・恥・拒絶感を抱かないためです。 私たちは神の子で世界で最高の家族の一員なのです。
  父よ。 この真理が、立っている人たちの心と意思に届くことを祈ります。

  イエスの御名で 解放を受け取ってください。 神に感謝してください。 感謝は最も純粋な信仰の表れですから。 働きの報酬でもないし、あなたには何もできませんが、神に感謝することはできます。 たっぷり感謝してください。




                   デレク・プリンス師(1915−2003、英国人 「教師」、見分け○確定(ただし、2番目の奥さん ×



   (筆者追記):    デレク師のメッセージで、御子イエス様の十字架上の 7番目の言葉、

   「父よ。 わが霊を御手にゆだねます。」 (ルカ23:46)   が欠けているので、追加します。( → 十字架上の7つの言葉 7. )




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